「東日本大震災の被災地の農家は、どうやって農業を再開したのか」。本紙「農家の特報班」の記者が石川県の能登半島地震の被災地、半島先端の奥能登地域で取材中に、そんな声を聞いた。農地に壊滅的な被害を受けながら、営農再開にこぎ着けた宮城県気仙沼市の沿岸部を訪ね、これまでの歩みを探った。
農地整備へ地権者合意に奔走
市内の沿岸部、波路上(はじかみ)杉ノ下地区は震災時、津波によって、農地も原形をとどめない被害を受けた。農地復旧は、被災前の状態に戻す原形復旧が基本だが、同地区は圃場(ほじょう)整備と復旧を同時に行う方法を選んだ。
「被災地で農業を続けるためには、効率よく作業できる農地が必要だと思った」
地元農家の佐藤信行さん(73)はそう話す。農家を含む地域住民らで話し合い、20ヘクタール分の整備計画を策定。整備を進めるのに約200人の地権者の同意が必要だった。所在が分からない地権者を探して佐藤さんらは奔走。仮設住宅を訪ね回ったこともあった。
難航したのが、地権者が亡くなった農地の同意だ。相続人が数十人いたこともあれば、地権者の妻が外国人で被災後に帰国していたこともあった。2014年から意向確認を始め、完了に3年かかった。行政の協力も大きかったという。
人手不足の課題も
地震から13年。今では広く、整った農地にネギや大豆が栽培されている。だが、被災地ならではの課題も出てきた。働き手の不足だ。16年に会社を設立し、ネギ栽培を始めた佐藤さんは4人の社員を雇い入れるも、これまで3人が退職。人手不足で栽培面積を4ヘクタールに縮小せざるを得なかった。
従業員の募集は続けているが、震災後、市全体で人口減少が進んだ影響で「パートも満足に集まらない」(佐藤さん)状況にある。震災後に利便性が高い仙台市近辺に引っ越した住民も多かった。奥能登でも金沢市周辺への転出が相次ぐ。
「農地復旧はゴールではなく、スタート」
人手不足や資材高騰といった難題もあるが、故郷の農業を途絶えさせまいと、佐藤さんは努力を続けている。
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